『硫黄島からの手紙』:勇敢に戦った日本人に改めて感謝と畏敬の念を強くした

海外出張の飛行機の中、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』を観た。

第二次大戦の硫黄島における戦闘は、生存率4%という、数ある戦史の中でも想像を絶する戦いだった。

ウィキペディアには、次のような記載がある。

1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊(小笠原兵団)の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。

しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。

日本軍に増援や救援の具体的な計画は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。

太平洋戦争(大東亜戦争)後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等[注 2]の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地の一つとして知られる。

ウィキペディア

『硫黄島からの手紙』から、われわれ祖先の国を守りぬく気概と誇りを感じた

硫黄島は、米軍の日本本土への空爆を食い止めなければならない重要拠点だった。降参することなどできるはずがなかったのだ。

なぜこんなところに日本軍は基地を作り、さらに米軍は島を奪還するため、海軍の大艦隊や海兵隊を送り込んだのか。

東京とサイパン島のほぼ中間に位置する硫黄島は日米双方にとって戦略上の重要拠点だった。米軍にとっては日本本土まで爆撃機を飛ばせる中継基地であり、逆に日本にとっては本土空襲を阻止するため絶対に死守すべき場所であった。

島を包囲した米艦隊による艦砲射撃はすさまじく、島の外観が変形するほどだったと伝えられている。軍備に勝る米軍は「島は5日間で陥落できる」と考えていた。

【戸津井康之の銀幕裏の声】通信兵は真っ暗な地下壕で頭上に米軍戦車の轟音を聞きながら、ただひたすら本土からの無線を待った…硫黄島の真実、生還した通信兵の証言(上)

栗林忠道陸軍中将は、全兵に玉砕、バンザイ突撃、自決を禁じた

硫黄島に着任した栗林忠道中将は、洞窟を掘りめぐらし、徹底抗戦する作戦を決断した。そして、全兵に時間稼ぎすることと、たったひとりになっても戦い続けることの意義を伝える。

栗林中将が玉砕、自決を禁じたにもかかわらず、のちに絶望的な戦況に堪え兼ねて自決を命じる上官が出てくる。家族の写真を握りしめて、ピンを抜いた手榴弾を胸に当てて自決していくシーンに涙がこぼれた。